桜はじめてひらく

心が自由になる場所

お天道様ありがとう。

 

暗くながいトンネルを歩いていた時代があった。

 

孤独で、苦しくて、フーっと吹いたら倒れてしまいそうに危うくて。

実際、危ない場面はいくつもあった。

 

何が苦しいのかわからなかった。

どうしていいのかも全然わからなかった。

 

ただ、ひとつだけ。

諦めなかったことがある。

 

 

それは歩みを止めなかったこと。

 

鉛のように重たい心と身体で傷だらけになりながらも、どんなときも前進しようと試みた。

もう歩けなくて、身体もうごかなくて、横たわったままの時期もあった。

そんな時は、それすらも前進だと思っていた。

 

だって、こんなに頑張っているんだもの。

こんなにも一生懸命になって、生きようとしているんだもの。

状況を良くしようと望んでいるんだもの。

 

それはまちがいなく前進している証だった。

 

 

「お天道様がみている」

 

 

昔の日本人なら誰もが聞いたことのある言葉。

 

どんな時も歩みを止めずに来られたのは、お天道様の存在があったから。

何か目に見えない存在がいつも見てくれている。

その存在はまちがいなくわたしを愛してくれている。

どんなに傷だらけになって転がっていようと、お天道様は穏やかに見守ってくれている気がした。すべてを信じてくれている感じがした。

 

お天道様の存在は陰に陽に

わたしの人生を支えてくれた。

 

見ていてくれるから、頑張れた。

 

最悪としか表現しようのない状況にあっても、お天道様だけはわかってくれている。

そう思っていた。

 

だって、わたしのすべてを見ていてくれるから。

わたしのすべてを知っていてくれるから。

 

おそらくこうした心の在りようを、信仰と呼ぶのです。