求め、探し、門をたたき続ける。
点と点がつながる体験には、至上の喜びがある。
点と点がつながる経験をくり返すと、それまでは単に線となっていたものが
突如として立体的な奥行きをともなって、存在ごとその人を包み込むのである。
至福の瞬間ー。
「仕合わせ」とは、こうゆうのを言うんだと思う。
点と点をつなげる作業は、人生の謎解きでもある。
自分の存在を感じたときの立体感。
それは後天的に得ることのできる感覚だ。
日々の暮らしのなかで、点と点がつながる化学反応に出会うとき、
わたしは聖書の一節を思い出し、胸に手をあててみる。
求めなさい、そうすれば与えられる。
探しなさい、そうすれば見つかる。
門をたたきなさい、そうすれば開かれる。
(マタイによる福音書7章7節)
聖書で最も好きなところの一つ。
この言葉と出会って25年。
その間、片時も離れず、ずっと人生に寄り添ってくれた。
求め、探し、門をたたくのだ。
人生の奥行きと立体感を味わうために。
そして、使命を生きるために。
偉大なる、あきらめ道。
自分の内なる場所が活発に新陳代謝をしている。
ここしばらく、そんな感じで過ごしている。
無意識の領域にもぐりこんでいた、自分の見たくなかった部分が顔をだした。
もう、見て見ぬ振りも、ふたをすることもしない。
それは楽なことではない。
だけれど、わたしをこの世に送り出してくれた数えきれない多くの存在があり、支えがあり、守ってもらい、今日もこの一日をいただいたんだから、
わたしはわたしを生きるという一つの尊い役目を果たさなくちゃならない。
これは、なにもわたしだけのことではなく、すべての人に言えること。
だから、今苦しくたって、前を向いて歩くんだよ。
苦しい気持ちを愛して、抱っこして、生きるんだよ。
そうしたら、自分の後ろに道ができていくから。
いつだって、先頭をあるくのは己自身しかいないのだ。
でも、そうは言っても自分の嫌な部分を見るなんて苦しくって耐えられないよ。
人間だからそう思うのは自然なこと。
だから、耐えがたいほど苦しいからこそ、「あきらめ」が重要になってくるのです。
もうごまかすのも、取り繕うのもやめよう。
無理なんだから。
わたしはわたしでしかない。
あなたはあなたでしかない。
あきらめよう。
そこからなら、歩き出せるから。
お天道様ありがとう。
暗くながいトンネルを歩いていた時代があった。
孤独で、苦しくて、フーっと吹いたら倒れてしまいそうに危うくて。
実際、危ない場面はいくつもあった。
何が苦しいのかわからなかった。
どうしていいのかも全然わからなかった。
ただ、ひとつだけ。
諦めなかったことがある。
それは歩みを止めなかったこと。
鉛のように重たい心と身体で傷だらけになりながらも、どんなときも前進しようと試みた。
もう歩けなくて、身体もうごかなくて、横たわったままの時期もあった。
そんな時は、それすらも前進だと思っていた。
だって、こんなに頑張っているんだもの。
こんなにも一生懸命になって、生きようとしているんだもの。
状況を良くしようと望んでいるんだもの。
それはまちがいなく前進している証だった。
「お天道様がみている」
昔の日本人なら誰もが聞いたことのある言葉。
どんな時も歩みを止めずに来られたのは、お天道様の存在があったから。
何か目に見えない存在がいつも見てくれている。
その存在はまちがいなくわたしを愛してくれている。
どんなに傷だらけになって転がっていようと、お天道様は穏やかに見守ってくれている気がした。すべてを信じてくれている感じがした。
お天道様の存在は陰に陽に
わたしの人生を支えてくれた。
見ていてくれるから、頑張れた。
最悪としか表現しようのない状況にあっても、お天道様だけはわかってくれている。
そう思っていた。
だって、わたしのすべてを見ていてくれるから。
わたしのすべてを知っていてくれるから。
おそらくこうした心の在りようを、信仰と呼ぶのです。
本当は嫌い。
居心地の悪さを感じる出来事があって、なぜだろうと考えていたら
ふと「劣等感」という言葉が浮かんだ。
ああ、そっか。
もくもくと雨雲のように不安が広がったのは、自分の一番痛いところを刺激されていたからだ。
ズキズキと、本当に、胸が痛い。
でも、だからって、どうしてそれが急所になっているんだろう?
これが自分じゃなくてほかの誰かのことだったら
「なんだ大したことないじゃない」って言えるのに。
そうなの。
わたしね、気がついた。
これまで自分のことを好きだと思ってきたけれど、そう思いたかったんだなって。
本当は自分が嫌い。
嫌いだなんて悲しいのに、そこから不思議と力が湧いてきた。
これまで、ああしなきゃ、こうしなきゃ、こうあるべきと理屈に手綱をにぎらせて
自分を縛ってきたことが少しずつわかりはじめた。
「こうあるべき」は、こんな自分だったらいいのになぁという夢物語。
理想の自分像を手放したら、あるがままの不完全な自分を
抱きしめて歩むことができる。
力の源泉はそこにある。
わたしはわたしでしかない。